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History

第一部

迸る源流 ~古の柳屋を訪ねて~

1615年~1945年 [元和元年~昭和20年]

1. 業祖・呂一官と徳川家康

■ 柳屋の創業

柳屋の事業は、1584(天正12)年、唐人・呂一官が、唐土並びに唐薬種等の御用にて、徳川家康から浜松に屋敷地を拝領したことを原点とします。呂一官はその後、1590(天正18)年、家康の江戸入国とともに、現在の日本橋交差点付近に、屋敷地を「御朱印地」として拝領し、江戸時代初期の1615(元和元)年、その一角で食用紅、化粧紅、練紅、白粉、香油などの製造販売を開始します。これをもって柳屋はその事業のうち、化粧品製造販売業の創業としています。

■ 業祖の渡来

呂一官は、16世紀後半の戦国時代に明国から日本に渡ってきた漢方医で、当初は京都に居住。薬草に精通しているばかりでなく、中国の香木などにも造詣が深く、高い評判を得ていました。
その頃、徳川家康の居城であった岡崎城下に悪疫が流行したため、家康はかねて名声を聞き及んでいた呂一官を招いて治療に当たらせました。呂一官はこの疫病を終息させることに成功し、家康の信任を得て重用されることになりました。

2. 江戸での開業

■ 家康から拝領した創業地・日本橋

家康は1570(元亀元)年、居城を三河国の岡崎から遠江国の浜松に移しますが、一官との関係は続いていました。一官は、医学や薬草だけでなく、土木、貿易などについても精通していたことから、その博学を買われて様々な事柄について諮問を受けたのです。
そして1584(天正12)年、浜松城下に拝領した屋敷地に移住し、唐土事情・唐薬種に関わる御用を拝命しました。また、一官は辻姓の日本人女性と結婚し、これを機に辻一官とも名乗るようになりました。
1590(天正18)年、家康は豊臣秀吉によって江戸に移封になります。一官も江戸へと移ると、同年、浜松の屋敷地の代替地として日本橋に御朱印地を賜りました。

■ 紅の製造販売権を与えられ、開業

1615(元和元)年、御朱印地・通弐町目の一角で紅の製造販売が始まりました。紅の他にも、香油や白粉といった化粧品も幅広く扱っていましたが、その処方が優れていたことから、紅や白粉などは江戸城の大奥や京都の宮中でも人気を呼び、一般庶民にも高級品として好評を博しました。
これらの事業の屋号は「紅屋」と称すようになり、その後、「柳屋」として継承されました。柳屋の由来は、「柳条末広」「柳に雪折れなし」の語義により、柳のごとく常に頭を低くし、幾多の苦難にも挫折することなく商売繁盛することを祈念したものです。

■ 一官の死去と名跡の継承

一官は1623(元和9)年10月10日に没しました。日本橋の屋敷地と柳屋の事業は妻方の辻家代々に引き継がれていきます。
その後、堀八郎兵衛家により引き継がれていきますが、後年、外池本家により継承され、現在に続いています。

3. 外池家の江戸進出

■ 外池宇兵衛正保の関東進出

江戸時代より、現在の滋賀県を拠点とし、行商により他の地域に進出した商人を総称して「近江商人」と呼びます。
外池宇兵衛家(外池本家)の正保もそのひとりで、宝暦年間、郷里・蒲生郡桜川村より行商人として関東に旅立ちました。
正保ははじめ農耕に従事していましたが、壮年になって一念発起、近江の物産を肩にして東下、まず下野国那須郡馬頭町に店舗を開き、ここを起点に各地に出店していき外池家の商いの基礎を作りました。

■ 父の遺志を継いだ正方・正義兄弟

外池宇兵衛を襲名して次の代となったのは、正保の長男・正方で、3歳違いの弟・正義と力を合わせて、外池家の事業を発展させていきました。兄弟はよく協力して販路を拡大、さらに店舗数を増やすことで利益を増大させ、財力を蓄積していきました。そして文化・文政年間、正方・正義兄弟は紅白粉油商の事業を引き継ぎ、江戸日本橋通弐町目で柳屋の事業を継承することとなったのです。

4. 柳屋の盛況

柳清香(りゅうせいこう)

■ 鬢付油・柳清香のヒット

柳屋のヒット商品となったのが、鬢付油「柳清香」。正方・正義兄弟が経営するようになってから売り出されたものでした。
鬢付油は髷を結うときに使用するもので、江戸の頃は男も女も髷を結っていたため、生活必需品でした。

柳屋では紅や白粉だけでなく、鬢付油も古くから扱っていましたが、その鬢付油に独自の工夫をこらしました。丁子、菖蒲根、茴香、白檀といった香木や麝香を白絞油に加え、これを大釜で3日ほど煮込んで油に香りを染みこませ、その後に木の樽に詰め寝かせて香りを馴染ませます。こうして完成するのが柳清香です。
また、柳屋の粉白粉は「雪の上」、練白粉は「蘭の露」と名付けて京都禁裏、徳川大奥をはじめ一般に愛用されていました。柳屋は徳川家より許された文字の金塗看板を掲げ、毎日早朝から夜中まで千客万来の盛況であったといいます。
江戸後期にもなると、江戸日本橋の土産といえば「山本の海苔、山本山の茶、柳屋の髪油」と相場は決まっており、柳屋の名前は広く日本中に知られていました。

5. 明治時代の柳屋

■ 江戸(東京)で商売を継続

1867(慶応3)年、15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し(大政奉還)、天皇がこれを勅許しました。翌年には五箇条御誓文によって新しい政治の方針が示されて、明治政府が誕生しました。明治維新です。
これにより徳川家は、駿府へと移転することを決意しました。このとき柳屋では、徳川家とともに移転すべきではないかという議論がありましたが、当時、柳屋を継いでいた正房(正方の娘の千世の子)は、江戸に留まると決め、同時に関東に展開していた系列店を整理しました。

■ 柳屋と断髪令

男子が髷を結う習慣がなくなるきっかけとなったのは、1871(明治4)年の「断髪令」から。

瓊姿香(けいしこう)

髷を結わないことが一般化する風潮は、柳屋の商売にも少なからず影響を与えましたが、この頃には、三宅島産・大島産の椿油を原料とし、香りに特徴のある鬢付油「瓊姿香」を売り出し、たいそうな評判となっていました。瓊姿香という名前は、ご婦人を瓊のごとく美麗にするとの思いを込めたもので、その効能は、髪の発育を助け、垢をとり、フケを止め、クセを直し、ツヤを出して香気が長く続くものでした。

また、江戸末期から、紅や白粉、鬢付油などのほかに、呉服、酒、醤油などの販売も手がけるようになっていたこともあり、明治になっても柳屋の経営を揺るがすほどのことはありませんでした。
柳屋では1911(明治44)年に「おつくりの栞」という商品カタログを発行しました。1913(大正2)年の改訂版には、通信販売の案内が掲載されています。遠方からわざわざ上京しなくとも、在宅のまま商品を取り寄せ、気に入らなければ何度でも取替える、と同カタログでは謳っていました。
なお、幕末から明治期の前半の柳屋を支えた正房は1890(明治23)年に没しました。後を継いだのは長男・五郎三郎正誼でしたが、外池本家を継いだのは、五郎三郎正誼の長男・宇平正国でした。そして、外池本家の指令のもと、1910(明治43)年に大学を卒業した五郎三郎正誼の次男・五三郎(株式会社柳屋本店初代代表)が五郎三郎を襲名し、柳屋油店営業名義者となりました。

6. 大正・昭和初期の柳屋

■ ポマードの製造販売開始

明治時代になって男性の髪型は、髷から短髪に変わり、化粧品も大きな変化が訪れました。鬢付油に代わって、男性が愛用したのがポマードです。
ポマードは、頭髪につけて光沢を出すとともに、髪を整えるための練状の香油で、明治後期から、日本でもポマードを製造して販売するところが現れ始め、大正期になると化粧品を扱っていた店が次々と売り出すようになりました。
当時のポマードは、豚などの動物性の脂肪に香りをつけた簡単なものが多く、その後は石油のワセリンを材料にした鉱物性ポマードになりましたが、洗髪しても落ちにくいものでした。

そうしたなかで、五郎三郎は、1920(大正9)年にアメリカ人技師のハーバード・ジョイスを招聘して、ヒマシ油に木蝋を溶かし込んだ純植物性のポマードを作り上げ、「柳屋ポマード」として製造販売を開始しました。
ポマードは柳屋を代表する商品であり、昭和の初め頃でも、外池家の子どもたちは学校で「ポマード」というあだ名をつけられたほどだったといいます。
また、この頃の店舗は、自製品はもちろん、小間物類、貴金属類など、婦人用品のほとんどを取り扱っていました。当時はまだ座売と言って畳の上で商売をする店が多く、デパートですら下足をとってもらって出入をしていました。しかし柳屋では、こうした商品を陳列ケースに並べていたため下足を脱ぐ必要もなく、店内に自由に出入りができる構造が評判となり大いに繁盛しました。

■ 関東大震災と柳屋

1923(大正12)年9月1日、神奈川県相模湾を震源としたマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。関東大震災です。
当時を知る柳屋の店員の手記には以下のように記載されています。「最初に上下動のち左右に揺れ、地表は海岸線の波の如く、軟弱な地盤の所では人間がすっぽり入れる位の亀裂を生じ」「尺五寸角の欅の大黒柱を中心とした強固な3階建て土蔵造りの店舗も、震幅七寸位ずつ、左右にギシギシと不気味な音をたてて揺れ、瓦や壁土の落ちる轟音に閉ざされ一瞬にして目前が見えず、5分間程にして人道が土砂で山となった」。
幸いにして負傷者はいませんでしたが、昼食時であったため各所で火災が発生し、その炎は瞬く間に拡大していきました。
そして、「午後5時頃には、見渡す限り焔に覆われ、もはや手の施しようもなく、千代田橋まで火がなめて来た」とあります。
五郎三郎は、当時取扱い製品の一つであった、大森にある海苔の製造所に避難するように指示しました。荷車に重要書類や鍵類等を満載して、命からがら大森に到着したのは、深夜11時半頃でした。
震災により発生した火災は、翌2日も鎮火することなく被害をさらに拡大。日本橋の店舗も、2日午前1時頃には炎に襲われ、灰塵に帰しました。
震災後間もなく、元の場所に10坪程のバラックを建てて営業を再開。商品は大阪鶴橋仮工場で製造し、柳行李に梱包して客車で東京へと運搬しました。そして新たな店舗が完成するのは翌1924(大正13)年3月まで待たなければなりませんでした。新店舗は、当初20坪でしたが、その後、卸部、練場、倉庫等などを徐々に増やしていきました。

■ 昭和恐慌とポマード

関東大震災の復興が進むなか、1927(昭和2)年、日本には金融恐慌の嵐が吹き荒れました。さらに1929(昭和4)年にはニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを受け世界恐慌へと発展、世の中は空前の大不況に突入していきます。
その危機を脱したのは、ようやく1931(昭和6)年12月に金輸出再禁止が実施されてからのことでした。庶民の生活にも、次第に落ち着きが戻り、それにともなって化粧品の売り上げも伸びていきました。
前年の1930(昭和5)年に小石川区高田豊川町に早稲田工場を建設した柳屋は、そうした需要の伸びに十分対処できる体制を整えていました。
1933(昭和8)年頃には、青年男子はもとより、年寄りまでがポマードを用いて整髪するようになり、そうすることが当然という風潮にまでなっていきます。
そのためポマードの需要は飛躍的に伸び、「柳屋ポマード」もさらに売り上げを伸ばしていきました。
しかしながら、政府のインフレ政策の影響で、ポマードの原料である植物油が前年度に比べて5割以上も高騰するという状況となり、売り上げは急伸していたものの、経営的には決して楽な状態ではありませんでした。

7. 戦時体制と戦時中の活動

■ 戦争と柳屋

1937(昭和12)年2月に勃発した日中交戦から、日本は戦争に突入していきます。
戦争が進むにつれて、物資不足は深刻度を増していき、統制経済の色彩が強くなっていきました。
ポマードの原料となるヒマシ油は、エンジンなどの潤滑剤としても使われたため、軍需用に優先して配分されるようになります。そのため東京髪油同業親油会が中心となり、いかにヒマシ油が業界の必需物資であるかという陳情を商工省に対し繰り返し行いました。とはいえ、戦況と同様に物資不足もいっこうに回復する気配はなく、業界全体が苦しい経営を続けるほかはありませんでした。
ヒマシ油不足のなかで、代用ヒマシ油の研究も行われました。ポマード用原料として供給されたものでしたが、欠点が多く実用になるものはありませんでした。
戦況が悪化するにしたがって、統制を目的とした政府の指示が次々と出され、強化されていきます。当然ながら原料供給も減っていき、経営は苦しさを増していきました。

■ 東京大空襲で日本橋の店舗と早稲田工場を焼失

1941(昭和16)年、日本は遂に米国との戦争に突入し、1945(昭和20)年3月10日、東京は米軍機による大空襲で火の海となりました。柳屋も、当然無傷であるはずもなく、この空襲により日本橋の店舗は焼失。さらに4月13日の空襲では早稲田工場も焼失してしまいました。終戦を間近にして、柳屋は販売拠点に加え、生産拠点すら失ってしまったのです。それから約4ヵ月後の8月15日、日本は敗戦国として終戦を迎えました。

8. 戦後、そして事業の再開

■ 終戦直後の柳屋

戦争で店舗も工場も失った柳屋でしたが、終戦の年の1945(昭和20)年に早くも活動を開始します。
同年12月1日、終戦の4カ月後に、空襲で焼失した日本橋の店舗跡地に営業所を建築し、開業しました。
さらに、翌年1946(昭和21)年4月15日に、これも空襲で焼失した早稲田工場の跡地に工場を復興し、ポマードの生産を再開しています。復興したとはいえ、東京のほとんどが焼け野原になってしまったなかで建築資材の需要は高まるばかりで、資材は極端に不足し、その値も急騰していました。そうしたなかでの工場復興ですから、満足な建物を造ることは困難で、バラックと呼ぶにふさわしい粗末そのものの工場の建物でした。

■ 柳屋ポマードの原材料を求めて全国を奔走

終戦後の極端な物資不足のなかでも、ポマードの生産再開が可能だったのは、手元にポマードの原材料となるヒマシ油があったからでした。
焼失した早稲田工場には地下室があり、大空襲に遭いながらも、そこは無傷で残されました。その地下室にはタンクが設けられ、そこにヒマシ油が保管されてあったのです。
とはいえ、需要に応えられるほどの量はありませんでした。そこで従業員は総出で、戦時中に飛行機エンジンの潤滑剤として使われていたヒマシ油を求めて、全国の飛行場跡周辺を中心に駆けめぐりました。「ヒマの油 買います」のチラシをまいたこともありました。焼け野原から立ち上がろうという強い意欲が、当時の従業員を支えており、それがあったからこそ原材料にも妥協を許さなかったことが高品質のポマード生産につながったのです。

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