0

History

第二部

時代とともに歩む ~柳屋の戦後復興と商品開発~

1945年~1991年 [昭和20年~平成3年]

1. 株式会社柳屋本店の誕生

■ 東京日本橋から全国へ

1945(昭和20)年、柳屋は化粧品事業を再開し代理店制(卸店を通して小売店へ商品を供給する)に移行し、全国展開を計ります。それまでは、柳屋の化粧品は、"東京みやげ"の代表にもなっていたように、東京日本橋の店舗を中心に販売していたのです。翌1946年に物品税が120%から100%に引き下げられると、化粧品市場は活気を取り戻していきます。柳屋も1948(昭和23)年5月18日、化粧品製造販売業を法人化し、社長には店主の五郎三郎が就任しました。

■ 「柳屋ポマード」のブーム

株式会社柳屋本店の主要取扱商品は、「柳清香(りゅうせいこう)」、「瓊姿香(けいしこう)」、「柳屋ポマード」でした。「柳屋ポマード」は、戦後間もない1947(昭和22)年頃、イギリスで流行したリーゼントスタイルが日本でも大ブームとなったことで需要が拡大し、さらに「純植物性」として市場の支持を得て男性整髪料市場の最大の人気を誇るようになっていきます。ブームに便乗して各社の有名ポマードの偽物も現れました。1947年12月11日付の業界紙『日本粧業』は「偽造品はその後依然跡をたたないのみか、ますますその種類が増え、手口はいよいよ巧妙となって未だ一件もその本拠をつき得ない状態で」と伝えています。

2. 需要の高まりと関西進出

■ 最新鋭の神田工場の操業

1950(昭和25)年、柳屋の商品は人気が高まり、特に「柳屋ポマード」は小石川の工場の生産能力が需要に追いつかなくなったため、東京神田に新しい工場を建設することになりました。新工場では、当時一般的であった平釜に薪燃料、人力で攪拌するという原始的な製造方法から、原料の溶解、攪拌等を機械化した二段式溶解釜を開発し、燃料にガスを採用しました。温度管理しにくく、氷代がかさむ氷水槽を使用した従来の冷却工程は、電気冷凍機タイプに変更されました。急冷されて固化したポマードを室温に戻す工程では、それまで床一面に並べていた保管容器を、台車付きの多段棚収納方式に変えて生産効率を飛躍的に改善。従来は、容器への充填は手詰めの正座作業、仕上げは立ち作業とまちまちでしたが、ベルトコンベアを使って機械充填から仕上げ作業までの流れ作業に変更し、効率化と同時に従業員の負担も軽減しました。ポマードの月産能力は90万個にもなりました。1960(昭和35)年5月、神田工場は操業以来150万時間の無災害工場となり、労働衛生管理部門でも優良賞を受賞しました。

■ 大阪支店の設置

1957(昭和32)年9月、現在の大阪市中央区にあった関西の連絡先を支店に格上げすることで、西日本市場の開拓に本格的に動き始めました。大阪支店の設置により西日本でも「柳屋ポマード」が認知されるようになりました。

3. 主力商品の発売と工場新設

■ 「柳屋ヘアトニック」の発売

1952(昭和27)年3月、「柳屋ヘアトニック」(当時の商品名は「ヘヤートニック」)が発売されました。アルコール度数が高く、ミントを加えた清涼感の極めて強いヘアトニックでした。当時はまだ、毎日洗髪する習慣がない人もいたため、頭皮に与える清涼感が好まれ、販売を開始するとたちまち人気となり、お風呂あがりの必需品になりました。イメージキャラクターとして起用されたフランキー堺さんは、「駅前シリーズ」などの喜劇を中心に、「私は貝になりたい」などの社会派ドラマなどでも活躍した国民的スターでしたので、同じく国民的商品を目指す「柳屋ヘアトニック」のイメージにぴったりでした。

■ 神武景気と小田原工場の建設

「柳屋ヘアトニック」は神田工場で製造していましたが、やがて需要に供給が追いつかなくなり、五郎三郎社長は、小田原市の酒匂川河畔に一万坪の土地を求め、新工場の建設を決意します。かねてから、敷地が広く、気候も寒暖の差があまりなく、煤煙などの心配のない清浄な地で化粧品を作りたいと考えていたからです。建設が始まった1954(昭和29)年12月からの日本は「神武景気」と呼ばれる爆発的な好景気で消費も活気づき、電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが「三種の神器」と呼ばれて庶民の憧れになり、多くの人々がこぞって手に入れていきました。化粧品も好調に売れ行きを伸ばし、柳屋も業績を伸ばした時期でした。

柳屋ヘアクリーム

■ 「柳屋ヘアクリーム」の発売

1957(昭和32)年、「柳屋ヘアクリーム」(当時の商品名は「ヘヤークリーム」)が発売されました。ヘアクリームは水と油を乳化したもので、髪にとって大事な水分と油分をバランスよく与える頭髪化粧品です。これまでの油分だけの整髪料と比べて、軽くてベタつかず、自然なつやのある髪に仕上がるところが人気でした。「柳屋ヘアクリーム」はガラス瓶に金文字、金キャップという高級感のあるパッケージが好まれ、たちまち柳屋のヒット商品となりました。若い女性をモデルにした新聞広告のコピーは「やわらかい髪、自然のウェーブ、さらっとしながら春の風にも乱れないシックリと落ち着いたムード 柳屋ヘヤークリームはこんな髪をつくります」とアピール。その後は男性ユーザーも増えてゆき、現在では男女共に愛され、安定した人気を維持しています。

■ ポマード、チック、ヘアクリーム工場の完成

1957(昭和32)年の6月に、小田原工場の第2期工事でポマードとチックの工場を新設。さらに第3期工事を経て、1959(昭和34)年12月にヘアクリーム工場が完成しました。小田原工場には小田原周辺から多くの若者が集まってきて働くようになり、軟式野球部や卓球部、華道部や書道部など部活動もさかんで工場内は若々しく家族的な雰囲気でした。小田原工場を見学した業界紙はこう伝えています。「柳屋技術者によって2年間研究完成されたチック充填機は13分間に1回転、210個のチックが生産されている」。「アルコールを撹拌脱臭し高速濾過し調合とオートメーション化され特に火災には注意を払いスノコ状に金属製の床が張られており3カ月以上熟成されたタンクが12本設備されている」

■ 昭和の3本柱のロングセラー化

柳屋の製品の中でも、「柳屋ポマード」、「柳屋ヘアトニック」、「柳屋ヘアクリーム」は広くその品質を認められ、その後も50年を越えるロングセラー商品として人気を博しています。

4. ヘアリキッドの襲来

■ アイビーカットの流行

1960年代、男性化粧品市場を一変させるファッション「アイビー」が大流行します。ボタンダウンのシャツ、コットンパンツ、コインローファーに代表される米国の大学生の着こなしが広まり、日本でもVANジャケットが火をつけ、銀座みゆき通りに集まるファッションに敏感なみゆき族にも採り入れられました。ヘアスタイルは短く、スポーティーな七三分けを合わせ、アイビーカットと呼ばれたこのヘアスタイルが男性整髪料の歴史を変えるのです。人びとは自然なツヤでソフトに仕上がるまったく新しい液体整髪料「ヘアリキッド」に飛びつきました。

■ ヘアリキッド市場の急進

ヘアリキッドの本場米国でのブランドの一つが「バイタリス」です。1962(昭和37)年7月、ライオン歯磨株式会社が「バイタリス」を日本で販売すると、またたく間に若者の間に浸透していきました。翌1963(昭和38)年2月には株式会社資生堂が「資生堂 MG5 リキッド」を発売。また、1970(昭和45)年には、丹頂株式会社が「マンダム」シリーズを発売し、イメージキャラクターにハリウッドスターのチャールズ・ブロンソンを起用。CM中のフレーズ「う〜ん、マンダム」が流行語になる大ヒットとなりました。

柳屋アットレーシリーズ

柳屋ヘアリキッド

■ 「柳屋アットレー」の発売

1963(昭和38)年7月に、ヘアリキッド「柳屋アットレー」が発売されました。「スマートなヘアスタイルを創る新整髪料」としてデビュー、ヘアソリッドも品揃えしました。4年後の1967(昭和42)年9月には、初代アットレーのベタつきを若者向けに改善し、香りを若者向けに改良した「アットレーカレッジ」を追加発売。同年、資生堂が男性総合化粧品ブランドとして「MG5」シリーズをデビューさせると、世の男性達は、トータルケアを志向するようになりますが、柳屋も1970(昭和45)年3月、"昭和二世専用新整髪料"として「アットレーGⅡ」シリーズ8アイテムを新発売します。一方、柳屋では、1971(昭和46)年8月、がんこな髪専用の「柳屋 ヘアリキッド〈ハード〉・〈ソフト〉」の2種を発売。イメージキャラクターには、映画監督の市川崑さん、ファッションデザイナーの山本寛斎さん、フォークシンガーの三上寛さんらガンコで通った有名人を起用しました。

5. 柳屋の海外進出

■ 海外への視察

1950年代から、柳屋では順調な売上を背景に海外へ進出していきます。1959(昭和34)年、榮一副社長は、アジアを視察し、1961(昭和36)年には100日間をかけて欧米を視察。その成果は、その後の海外展開に大きな影響を与えました。

■ 海を渡った「ヤナギヤ水」

1965(昭和40)年に、柳屋は台湾で合弁会社を設立し、現地で「柳屋ポマード」と「柳屋ヘアトニック」の製造を始めます。当時の台湾での販売先は、小売店ではなく理髪店でした。台湾でヘアトニックを発売したのは柳屋が初めてでしたので「柳屋ヘアトニック」の名前は広く浸透し、ヘアトニックは「ヤナギヤ水」と呼ばれるほどでした(他社のヘアトニックは「○○化粧品のヤナギヤ水」と呼ばれました)。同じく1965(昭和40)年にはフィリピン・マニラ工場が完成し、日本から原材料を送ってポマードを生産しましたが、フィリピンでは日本の香りは通用しないことがわかり、試行錯誤を繰り返して現地の人が好む香りをつくり上げました。1965(昭和40)年6月に日韓国交正常化が実現すると、ほぼ同時期に、韓国の大道薬品との技術提携が成立しました。「柳屋ヘアトニック」を大道薬品の社長が気に入り、「このような優秀な製品をつくるメーカーとなら安心して提携できる」ということで提携の運びとなったのです。新工場はソウル郊外の自然に恵まれた広大な敷地に建てられ、韓国一の規模を誇るた近代的な化粧品工場でした。1968(昭和43)年9月には、タイにおける生産も開始されました。しかし、1973(昭和48)年のオイルショックを境に国内企業は守りの姿勢に入り、柳屋も同様に海外進出拠点を縮小し、1974(昭和49)年には、すべての海外事業から撤退しました。

6. 他カテゴリーへの進出

■ 「柳屋トリートメントヘアダイ」の発売

1976(昭和51)年、柳屋は画期的なヘアカラーを発売します。チューブ入りクリームタイプの白髪染め「柳屋トリートメントヘアダイ」です。市場で話題となり、大ヒットしました。この「チューブ入りクリームタイプ」の白髪染めは70年代半ば、理美容業界で先行して流通していたものでした。当時のヘアカラーは全体染めしかできない「シャンプー式」が主流でしたが、「チューブ入りクリームタイプ」であれば、伸びてきた髪の生え際など、部分染めに必要な量だけ小分けにして使えたわけです。柳屋はこのブランドに社運を賭け、テレビコマーシャルを制作し、また当時すでに大女優であった三ツ矢歌子さんをイメージキャラクターに採用するなどして、広告宣伝に力を入れました。また、美容宣伝販売員という美容部員を組織し、小売店や量販店に推奨販売を展開しました。この美容宣伝販売員のうち能力の高いスタッフは、お客様に対して染毛のデモンストレーションまで行いました。

■ 家庭用品「チャロ」の発売

1976(昭和51)年3月には、三菱油化株式会社(当時)と化粧品の共同開発および家庭用化学製品販売に関する業務提携を結び、「チャロ」というブランドで、ポリ袋、ラップ、ポリロープ、ゴム手袋といった製品を発売しました。

7. 得意分野への回帰

■ 「柳屋グリース」と映画「グリース」のヒット

柳屋グリース

1978(昭和53)年、12月「柳屋グリース」が発売されました。ポマードをアレンジした商品で、ペパーミントとライムの2種類を揃えました。同月、ジョン・トラボルタ主演の米国映画「グリース」が日本で公開され、大ヒット。映画は50年代のアメリカを舞台にしているため、登場人物は髪をポマードで固めています。映画と同名のグリースも同じく大ヒットしました。

バルドシン

■ 本格育毛剤「バルドシン」の発売

生活者が身体的な悩みや恥ずかしさから解放されることを願い、1983(昭和58)年2月、柳屋では初めての本格育毛剤「バルドシン」を発売しました。育毛・養毛のノウハウを活かし、「バルドシン」は、生薬、ホルモン、ビタミンEを贅沢に配合した育毛剤で、定価4800円の高価格帯商品でした。同年4月には、女性の気になる体毛を金色に脱色する「エマ ビューティーディカラー」を発売。さらに、1984(昭和59)年2月には、イオウを配合したフケ・カユミの対策商品「柳屋薬用ヘアトニック」が発売し、コンプレックス解消商品の開発に力を注ぎました。

8. 市場の変化と柳屋の挑戦

■ ヘアジェルの登場

昭和の終わりになると、頭髪化粧品市場はまた大きく様変わりします。まず1979(昭和54)年、新整髪料「ヘアジェル」が日本に上陸しました。これまで整髪料といえばそのほとんどが油分をベースにしていたが、ヘアジェルは油を使わず、ヘアスプレーのように樹脂を整髪の主成分とする透明ジェル状の整髪料で、そのためベタつかず、整髪後は乾燥して固まるというのです。株式会社井田両国堂が米国Dep社より輸入販売したのがはしりで、チューブやカップに入ったその中身はピンク、ブルー、イエローなどカラフルな蛍光の色付けがされ、細かい気泡がちりばめられているため、照明があたるとキラキラと反射して売り場を華やかにしました。

■ ブロー剤とヘアフォームの登場

1984(昭和59)年7月に、株式会社小林コーセー(現・株式会社コーセー)が、欧米で大人気となった新整髪料「ヘアフォーム」の「ロレアルフリースタイル」を発売しました。ヘアフォームは当時、消費者には株式会社資生堂の登録商標である"ムース"の呼び名で親しまれました。ヘアフォームは基本的に、ヘアスプレー、ヘアジェル同様、油を使わず、樹脂を整髪の主成分とする泡状の整髪料で、ふわっとボリュームを出したいヘアスタイルに最適な泡状の整髪料でした。同じ1984(昭和59)年は、トイレタリー各社のシャンプーシリーズから、ドライヤー時に使用する整髪料「ブロー剤」が発売されました。朝シャンが流行し、キレイな髪を保つためのブロー剤が消費者に習慣化されていきました。

柳屋DRYシリーズ

■ 「柳屋DRY」のヒット

1986(昭和61)年、男性用ヘアフォーム「メンズムースタンク」2品が発売されます。1987(昭和62)年に株式会社資生堂から「資生堂メンズムース」が発売されると、ヘアフォームは一気に浸透し、若者の定番の整髪料となります。1988(昭和63)年10月、そのヘアフォームを組み入れた「柳屋DRY」シリーズが誕生しました。ベタつかず、速乾性のスーパーハード整髪料として、「柳屋ムースDRY」、「柳屋スプレーDRY」、「柳屋ジェルDRY」の3アイテムが発売されました。「虚飾を廃した整髪料」というコンセプトどおり、容器の缶には塗装を施さず、缶生地の銀色を活かしたほかにはない斬新なパッケージでした。

KOOL薬用シリーズ

■ 「KOOL」薬用シリーズの発売

1991(平成3)年には、「KOOL」薬用シリーズを発売しました。「KOOL」はこれまで1981(昭和56)年の「シェービングフォーム」をはじめ、「ヘアトニック」、「ポマード」、「ヘアクリーム」などの頭髪化粧品、「洗顔フォーム」や「フェイスパック」などのスキンケア化粧品、「ミントコロン」や「シャワーソープ」などのボディケア化粧品など、爽快なイメージの化粧品ブランドとして展開していましたが、新たな薬用シリーズは、主に日焼け後で火照った顔や身体を鎮める薬用化粧品で輸入化粧品っぽいパッケージデザインが人気を呼び、夏の定番となりました。

トップページ